藤田城(石川町中野)
石川町中心部から国道118号線を約3q北上した中野地区にある石川氏の城である。
JR水郡線野木沢駅に北、800m。国道118号が直ぐ南下を通過する。
城は東から西側の阿武隈川の流れる低地側に張り出した丘の末端部にあり、標高は330m、麓を通る国道118号からは比高が30m、阿武隈川からは比高が70mある。
この付近は低い丘が複雑に入り組んで存在する。

この地のすぐ北は玉川村である。戦国時代、この地を支配した石川氏が始めて城を構えたのが、この藤田城と言われる。
『尊卑分脈』には、「石川氏は清和天皇の孫経基王の長子源満仲を遠祖とし、その孫頼遠河内国石川郡などを領し、その地の石川庄に住んだ。
永承7年(1052)前九年の役に源頼義に従って陸奥国に下り、安倍貞任と戦って討ち死にし、父と共に従軍した有光は奥州石川の地をを与えられ、はじめ藤田城に住んだ。」と記載される。
しかし、この地は水の確保に難しく、その後、本拠を三芦城に移し、ここは一族の大寺氏一族の者が住んだという。
大寺氏が主家石川氏に反抗して滅亡後は、石川氏宗家のものになったと思われるが、奥州仕置きで石川氏が改易されると廃城となったという。
非常に古い伝説を持つ城であるが、今残る姿は完全な戦国城郭である。
それもメリハリが利いた素晴らしい城である。
堀や土塁はほとんどなく、段郭だけの城であるが、特に切岸の高さ、勾配の鋭さが素晴らしい。
これは予想外であった。その割にこの城の素晴らしさが知られていないのは惜しい。
三芦城の直ぐ北を守る城として、北の雲霧城、大槻城などの石川氏の城とのつなぎの城でもあり、重視されていたのであろう。
城址は公園化され、立派な遊歩道まで付けられている。
しかし、この城の案内板が近くにはない。国道118号線沿いにも見られなかった。(見落としたか?)
@本郭内部。周囲に土塁はない。 A二郭内部。 B本郭南の曲輪 C三郭南西の虎口
D搦手口の曲輪。北に土塁がある。 E搦手口の登り口 F東下谷津部から見た本郭東下曲輪群 G本郭から見た東方向。

城は「コ」字形をしており、北側が開いて谷状になっている。
この形式は石川氏の西の防衛拠点、沢井城に似ている。
城域は350m四方ほどあり、80m×25mほどの広さの2つの曲輪と30m四方の曲輪がL形に並び、その周囲に帯曲輪がある。
南西から延びる大手道を登ると南の腰曲輪に出る。
この場所は日当たりが良く、風も防げる。
居館があったとしたらこの曲輪か、この下付近であろう。
その手前に二郭が聳える。切岸の高さは5mほどある。二郭の北側から二郭に入る。
そのまま行けば、郭に囲まれた谷間に行くが、ここも何かがあったと思われるが、日当たりが悪く居住できる場所ではない。
それに内部が傾斜している。
あったとしたら馬場か矢場があったのではないかと思われる。
この谷間のような場所から東側の三郭に登る道があり、三郭側に虎口がある。
さて、二郭であるが、東西80m×南北25m程度の広さであり、長方形がやや歪んだ形である。
その東側高さ5mを置いて、本郭がある。こちらは南北80m×東西25mの広さである。
東側下5mに帯曲輪がある。本郭の北側7m下に30m四方の三郭がある。
この曲輪には谷間から登って来る道の他に北に1本、直線的に竪土塁状の道が下る。
この部分は須賀川の長沼城にそっくりである。その下に搦手口の曲輪がある。道が搦手口の土塁を巻くように下っている。
本郭に話を戻すが、本郭の東は鞍部状になって、東側に続く丘がある。
城址の縄張図にはこちら側は城域ではないような描きかたになっているが、切岸の加工もしっかりしており、また、直ぐに本郭に面するため、こちら側も城域と考えられるのではないだろうか。
また、三郭の東側に巨大な岩があるピークがある。物見岩ということになっているが、本郭から見た方が遠くは良く見える。
また、本郭の南側切岸にも巨大な岩が埋まっている。岩がある点では、石川氏の本拠三芦城に良く似ている。
巨大な岩は石川氏にとって特別な意味を持っていたのかもしれない。
したがって、物見岩と言われる岩も城の守護神のように扱われていたのではないだろうか。

権現山館(石川町赤羽)
権現山砦とも言う。赤羽地区にある赤館の東の谷津を挟んだ半島状の出っ張り部にある。
この館の東側も大きな谷津となっており、東西の谷津に挟まれた3つの曲輪からなる直線連郭式の城館であった。
内部は杉林状態であり、荒れている。西側の谷津側から斜面を登れば入ることができる。

館の全長は250mほどある。人家の陰に隠れているが、曲輪Vの南側、県道11号から20m北に堀跡があり、曲輪Vの南に土塁と、虎口がある。
曲輪Vは東西40m、南北80mほどある。その北が曲輪Uであるが、曲輪Vとの間には土塁があるだけであるが、堀は見られない。
埋めてしまったものかもしれないが、西側が竪堀があるので、埋められた公算が大きいようである。
曲輪Uは40m四方の大きさで、北に幅10m、深さ2mほどの堀がある。かなり埋没しているようであり、元々は立派であったと思われる。
その北が曲輪Tである。一辺50mの三角系をした曲輪であり、曲輪U側に土塁がある。ここがおそらく本郭であろう。
高さは曲輪U側のほうが高い。曲輪Tには東側から堀底を経由して入ったようである。
曲輪Tの北端は低地に向けての細尾根となっており、小さな曲輪が2,3存在する。
砦ともされているが、砦レベル以上の結構、広い城であり、居住性も良く、居館や倉庫が置かれていたものと思われる。

右の鳥瞰図中の番号は写真の撮影位置を示す。
@曲輪U、V間南の堀 A 本郭(右)と曲輪U間の堀 B 本郭内部

一夜館(石川町赤羽馬舟沢)おまけに赤館(石川町赤羽)
石川町の西、阿武隈川の低地を西に見る赤羽地区の台地の縁にある。
城のある場所の標高は297m、西側の低地が278mであるので、比高は19m。
ここは白河方面から石川方面に行く県道11号線の沿線であり、町立沢田中学校の西700mに位置する。
単郭の城であるが、鼓のような歪んだ方形をしており、それが航空写真でもばっちり写っている。

ほぼ完存状態である。
郭内は90m四方の広さであるが、西側を除く台地に続く3方に土塁と堀がある。
堀幅は20m程度あり、土塁は堀底からは6mの高さ、郭内からでも4m程度と結構立派なものである。
東側と南側に土橋がある。西側は8m下に不明瞭な帯曲輪があるだけである。堀部分を入れれば、130m四方が城の範囲であろう。
城のある台地の北は馬舟沢という谷津があるが、この谷津の北側の山にも遺構がある。
この山は東側から半島状に突き出ているが、付け根部に堀切があり、先端部に窪んだような場所がある。
山内部は削平されておらず、緩斜面である。おそらくここは物見の出城であったのであろう。

東側の阿武隈川の低地より見た城址。右手の山に
主郭があり、左の山に出城がある。
館内部である。椚の林であり、西側以外を土塁が周る。
冬場は落葉して曲輪内が明るい。
館の東側に土橋があり、虎口が開く。
館南側の堀。きれいに残っている。 南側にも虎口と土橋がある。 南側の土橋の西側に堀が続く。
館東側の堀。 館(右)北の馬舟沢。左側の山に出城がある。 出城の竪堀であるが、杉の葉が埋まって分からん。
出城の先端部には窪んだ場所がある。 赤館の堀であるが、木が凄い。 赤館、南側の腰曲輪。

平安後期に石川有光がこの地に来るが、孫の政光がここに住み赤羽氏を称したという。
その後、赤羽氏は南、1kmにある赤館に移って廃城になったという。
しかし、赤館よりこの城の方がはるかに立派であり、戦国後期の色の濃い城である。
ここは白河結城氏の勢力圏に接する地であり、境目の城として戦国後期まで使われていたのであろう。

なお、一夜館という名は、鎌倉権五郎が一夜で築いたという伝説によるという。
また、「留置館」という牢屋のような別名があるが、源頼義がこの地に5日間滞在していたので付いたともいう。
石川町にある城の中では完全な状態にある。立派な部類の城であるが、館の案内板も説明板も何もない。
行くだけでも迷ってしまう城である。もったいない。

赤館は赤羽地区にある八幡神社の西側一帯である。立地条件はここ一夜館とほぼ同じである。
しかし、館の主要部は民家である。
民家と八幡神社の館に堀とその南側に腰曲輪が残っていることは確認したが、全貌は分からない。
(日本城郭体系を参照。航空写真は国土地理院の昭和50年度撮影の航空写真の一部を切り抜いたものを使用。)

平館(石川町沢井)

沢井城のある山の西に県道11号と137号が分岐する沢田三叉路を中島村方面に250mほど行った北側、社川の低地の水田地帯に面した微耕地が館跡とされている。
しかし、その場所は耕地化されて、段差が確認されるだけである。
果たしてこの場所であろうか?
こんな疑問を抱いたが、どうも場所は間違いないようである。
「日本城郭大系」には圃場整備のため湮滅とある。つまり、耕地整理したということである。この付近で耕地とすればこの場所付近であり、この記述ならこの場所に間違いないことになる。
でも、この場所は周囲、南側と西側が標高が若干高い丘であり、丘の上から館内が丸見えである。館を構えるなら、県道137号線を挟んで対称の位置にある沢田小学校側の丘の方が館を置くのに適していると思うのであるが。何でこんな場所に館を置いたのだろうか?
館主等は不明であるが、石川氏に関係した者の館ではないだろうか。

背戸山居館(石川町赤羽)

石川町最西端の赤羽地区にある。
赤館がある赤羽の八幡神社から白河市方面に県道11号線を300mほど行くと、左手、南側に東光寺がある。
この東光寺及びその背後、東側の丘が館跡とされている。東光寺は若干、微高地にあり、西側の低地に堀があったような感じがしないではない。
この丘の真ん中を赤羽地区から旧東村の小田野地区に通じる農道が貫通し、南側部分は墓地になっている。
この丘内部に突入してみたが、内は管理されていない歩くのもままならない杉林。
切岸のような感じの部分はあるが、土塁、堀などは確認できなかった。館主等は不明。
東光寺。若干高い場所にある。 南から見た館跡の林。

桃子山館(石川町赤羽)

一夜館の南1km,県道11号沿い、沢田中と赤羽の間にある農協の農産物集積所倉庫の南側の少し高い丘に館があったという。
この丘は南東方向から北西方向に張り出していたようであり、その先端部に館があったらしい。
昭和60年に国土地理院撮影の航空写真に若干その面影が残る。
しかし、現在は開墾されて、ただの畑。消滅してしまった。
館の来歴等は不明であるが、石川氏に係る者の館であろう。

和泉式部伝説

この地には和泉式部伝説が多い。
彼女が13歳で上京した時、この地に残した愛猫が三日三晩啼き続けたという言い伝えが、「猫啼温泉」の名前の由来になったと言う。
「小和清水」が城のすぐ西にあるが、ここは玉世姫(後の和泉式部)が、産湯を浴びた清水と伝えられている。

どんなひでりでも水量は減らず、里人に恵を与えたという。
またこの清水を飲むと大変声が良くなり、歌が上手くなると伝えられている。

また、金子山光国寺由来縁起によると、「64代円融院の時代、曲木の里に、安田兵衛国康という長者があり、四十路過ぎても子宝に恵まれず、亡母のお告げにより二所の関の観世音に参籠祈願し満願の日に、観音様が童子となって枕辺に現れ、夫婦のたっての願いにて大願成就、ついに極月十七日女児出産、玉世と名づけて、寵愛、成長し観音様の申し子と伝わる。十三歳にて京に上り、和泉式部となる。姫を慕いて、後に地元民が式部の功徳にこの小堂を建立したと伝えられている。
本尊は、如意輪観世音菩薩である。」と記されている。(石川町HP、寺の解説板より)
「小和清水」 和泉式部堂

彼女については、天元元年頃(978年?)出生とするのが通説。中古三十六歌仙の一人。
越前守の大江雅致の娘であり、和泉守の橘道貞の妻となり、夫の任国と父の官名を合わせて「和泉式部」の女房名をつけられたというのが定説。
恋愛遍歴が多く、藤原道長から「浮かれ女」と評されたという。恋多き情熱の女ということだろう。
真情に溢れる作風は恋歌・哀傷歌・釈教歌にもっともよく表され、殊に恋歌に情熱的な秀歌が多く、その才能は同時代の大歌人藤原公任にも賞賛された。
敦道親王との恋の顛末を記した物語風の日記が『和泉式部日記』があるが、これは彼女本人の作であるかどうかは疑わしいという。
ほかに歌集として『和泉式部正集』『和泉式部続集』『宸翰本和泉式部集』が伝存する。
『拾遺集』以下、勅撰集に二百四十六首の和歌を採られ、彼女の死後に編集された初の勅撰集『後拾遺集』では最も多くの歌が収録されている。
和泉式部の墓所と伝わるものは、石川町のほか、岐阜県御嵩町、大阪府堺、佐賀県嬉野、兵庫県伊丹等、全国各地に存在するが、いずれも伝承の域を出ない。
柳田國男は、このような伝承が各地に存在する理由を「これは式部の伝説を語り物にして歩く京都誓願寺に所属する女性たちが、中世に諸国をくまなくめぐったからである」と述べている。
(Wikipediaの記事を参考)